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大相撲きょうの記事(10月28日)

明治30年

大碇紋太郎は先頃行司式守与太夫宛に、師匠伊勢ノ海への帰参詫書を送っていたが、伊勢ノ海も大碇に改心の状を哀れんだため、春場所には久し振りに出場する事となった。

(解説)

元大関大碇は明治29年春場所を最後に脱走、京都力士との興行や台湾渡航など行っていたが、明治30年に入ってから帰参願を出していた。明治31年春には久し振りの出場となるが、1勝7敗の不成績で京都相撲へ脱走する事になる。

なお、大碇の最期は長年不詳のままだったが、令和4年になり、ブラジルで昭和5年に没した事が判明している。

写真は大碇。


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